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高校生 文章

高校3年までの18年間、山あり谷あり、色んな経験をしてきたなと振り返ってみた。全身麻酔の手術を乗り越えた。生徒会を3年間やった。演劇部の公演前日、部員みんなで徹夜した。精神的な疲労から過呼吸に悩んだ。でも、結局、軌跡を振り返って思うことは、
「私」に生まれて、生きることができて、「私」は幸せだ
ということ。何故なら、個性、つまり私らしさに自信をもっているから。

 

悩み多き高校生

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私の個性は何かというと以下の通り。

  • 頭の回転が速い
  • 行動力がある
  • 女子が苦手で男友達が多い
  • 政治、経済、地元大好き

個性があって良かったと思うこともある。推薦書、面接練習の話題に困らない。決断が早く、検定合格やイベント開催など大きな目標を達成しやすい。しかし、結局悩むことが圧倒的に多い。疎外感を感じることが多いのだ。例えば、以下の時。

  1. 男女で分けられた体育の時間
  2. テストの点数が良かった場合

前者は、女子の輪に入ることが苦手だから。クラスに一人はいるんじゃないだろうか。孤立して運動だけ真面目にする系女子。あれだ。後者は、嬉しいだけだろうと思われるかもしれない。だが、できるなりに悩んでいるのだ。その時の私を自己分析にかける。

1.男女で分けられた体育の時間

 私は、上記のような体育の時間が憂鬱でしかなかった。男女別に分けると暗黙の了解のようにいつもの仲良しグループが各々集まり授業が進む。放課後のような雰囲気が授業中にもかかわらず漂う。もはや、スポーツを真剣に取り組むというような授業らしい雰囲気ではない。スポーツをする機会が体育しかない文化部の私はムッとなる。いい汗をかいて、痩せたいとか思ってたのに。早々に体育の時間をつかってのダイエットを諦め、場の雰囲気に染まることに尽力する。ここで、問題に気づく。私には、同世代女子と話すための共通の話題が少ない。授業は65分。授業の準備、後片付けの時間を含めると80分近くになる。到底、話し続けることはできない。話そうと努力してもやっぱり疲れる。孤立する。また頑張ってみるがやっぱり……。このように悪循環に陥る。好きで孤立している人間はいない。少なからず、体を動かすことに真剣になると孤立がどうこうは関係なくなり楽しいばっかりなのだが。

 先生によっては男女を混ぜて授業を進めてくれた。男女でのペアワークまたは、チームワークが一定時間、変化なく続くと恥ずかしさが勝ってくる問題がある。この対策として、恥ずかしさが勝つ前に相手、チームを何回も変えながら授業が進行していく。多くの人のプレイを観察できるので、すぐに上手な人のプレイをまねることができる。また、飽きがこない。話したことがない同級生とも自然と話す機会ができるため嬉しい。いいこと尽くしのように感じた。やはり、私は体育の時間が男女混合であってほしいと願う。

 2 .テストの点数が良かった場合

私のテストはいつもいい結果というわけではない。毎日忙しくしないと死んでしまう病の私は、毎日をスケジュールだらけにしてしまう。部活、委員会、読書、勉学、地域振興、学校行事など。最低でも三つの物事を同時進行させる。忙しい時期が、テストと重なることも多い。そう、勉強を捨てることもよくあったのだ。赤点ギリギリの点数に慣れた最底辺の人間だった。しかし、高校生活も終わりが近づいてきた。優先順位一位は自ずと勉強になる。元々、勉強好きな私が純粋に好きなだけ勉強できる環境を整えた。勉強を楽しむ習慣が身につくと効果もすぐに現れる。真面目に取り組んだテストはお察しの通りちょっと張り切りすぎた点数になってしまった。順位表が張り出されるので周りの目がどうしたって気になる。「うざい、調子ノリやがって。」「なんであいつが」そんなことを思ってる人間がいるわけはないと分かっていても思ってしまう。

「私」は天変地異か?

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個性について改めて考えたい。ここでは個性を持った人間存在を「私」という一人称で定義する。個性を持っていることは人類共通の真理ではないのか。

始めに挙げたように、単体としての一つの個性は何気ないありふれたものだ。だが、それぞれに様々なパターンの個性がくっついている。そして、そのパターンはみんな異なっている。だから、「私」はこの世に一人しか存在しない特別な一人になるのだ。この現象は誰にでも当てはまることだろう。つまり、「私」は怪奇現象ではない。誰でも特別な人間になれる、さらに言うと、誰しもが個性を確かに持っているのだ。
物と名前はどっちが先か。人間という確かな普遍性の塊に名前がついたのか。名前は単なるラベリングに過ぎず、それぞれは異なっているのか。この実在論と唯名論の論争を思い描いてほしい。

また個性は昨今、社会に歓迎される要素だ。しかしながら、個性は一定の境界線を越えると異端と見なされ周りの目はナイフになる。個性の集合体である「私」は時として、社会の拒絶対象になってしまうらしい。この加減が非常に難しい。

例えば、学校制度は、多様性の大切さを尊び様々な学びの形を推奨している。入試のためだけではない日常のなかに、人格形成にとって大切な豊かな学びがあったと私も感じる。しかし、まだまだ不備が多い。私は部活の大会とテストが重なり体調をいつも崩していたし、点数も低かった。試験日程を一週間ずらすなど、配慮があれば、もっと文武両道がしやすい環境になるはずだ。実際に勉学だけでなく他の物事にも、同時に熱心になる生徒への想定が追いついていない。
「鈴と小鳥と私、みんな違ってみんないい」小さいころ、毎日のように歌った。見た目、人種、言語、性格、性別、能力、個性など、全てにおいて、多様性が認められる社会。それが理想らしい。しかし現実は「郷に入っては郷に従え」だ。

あぁ「私」ってめんどくさい。全ての個性の値が平均値の私だったら良かったのに。普通の人間になりたい。そう思う一方で、やっぱり特別な人間として、他者とは違った自分でいたい。かと言って、違ったら違ったで理解されない自分の個性を抱えることになる。あぁ「私」ってめんどくさい。こんな「私」は傲慢なのか。

個性と上手く向き合うために

個性にも社交辞令のように定型文があると思う。面接で「あなたの長所は」と質問されたとする。皆が口を揃えていう。社交性がある。真面目だ。リーダーシップがある。きっと面接官も飽き飽きするほどに同じ回答だろう。

人は自分の個性に自信があったとしても、他者と同調したくなる。また社会も例に挙げたような試験に、合否の明確化を求められる。ここに個性が定型化されつつある原因があるように感じる。個性の定型化は個人にも社会にも合理的でありがたいのだ。しかし、社会が形成した個性の定型文、それは偏見にも繋がるだろう。偏見は悪い、個性の多様性は良いとする一方で、偏見はなくならない。ある意味では、偏見に自分を透過させる方が楽である場面さえ多い。何故なら、型に当てはまる人間は言うまでもなく社会に支持されるからだ。しかし、本当にそれでいいのか。

人に定型文は本来ないはずだ。現に、世間一般に成功者と呼ばれる人達は、私達が想像したこともないような経験をしている。AIに規則性のある物事、全てを担ってもらう現代では、並一通りの人は求められないだろう。だからこそ、「みんな違ってみんないい」なのだ。どうか個性の塊である若者に光が当たりますように。個性を持った若者に花束を。

(執筆:12月期TCPライティングコース|高3・メイメイさん)

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